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              2013越知山泰澄塾c

 

 

 

 

 

 

 

白山信仰と泰澄大師





(1)『泰澄和尚伝記』の伝える泰澄大師の生涯
1.泰澄大師は、越の大徳(こしのだいとこ)または神融禅師ともいい、越前国麻生津(あそうず)の三神安角(やすずみ)を父、伊野氏の女性を母として、大武天皇の白鳳22年(682年となる)6月11日に生まれた。
2.幼い頃から一般の児童とは異なり、泥で仏像を造ったりしていたが、持統天皇7年(693)にこの地を訪れた道照(道昭)が神童であることを見抜き、両親にその旨を伝えた。
3.11歳の時に11面観音の夢告を受け、越知峰の坂本の岩屋に通い、後年この峰に籠って修行に励んだ。
4.大宝2年(702)には伴安麻呂が勅使として遣わされ、泰澄は鎮護国家の法師となった。
5.この年、能登島より小沙弥が訪れ、やがて泰澄の身の回りの世話をするようになり、臥行者(ふせぎょうじゃ)とよばれた。
6.臥行者は北海の行船から米を徴収し和尚に供していたが、和銅5年(712)中央の政府に納める米を運搬して出羽よりやってきた船の船頭神部浄定(みやべのきよただ)はこれを断った。臥行者が怒ると、船の米は飛んで越知峰に来集したため、仏徳の不思議をみて浄定は和尚に謝った。そして米を返して貰い、これを中央に届けた後和尚の弟子となって側に侍した。
7.和尚は霊亀2年(716)に貴女(白山神)の夢告を受け、養老元年(717)4月1日その母のゆかりの地である白山の麓の大野隈苔川束伊野原に来宿した。
8.この東の林泉に貴女が現れ、自分は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)(伊弉册尊の誤記か)で、妙理大権現と号すと語った。
9.さらに和尚が白山大嶺の禅定(霊山の頂上)に登ると、緑碧他の側で最初九頭竜王が、次に白山神の本地仏である11面観音が現れた。
10.また左孤峰で聖観音の現身である小白山別山大行事、右孤峰で阿弥陀の現身の大己貴(おおむち)を感得し、和尚はこの峰に居した。
11.のち養老6年には浄定行者とともに都に赴いて元正天皇の病の治療にあたった。その効あって和尚は護持僧として禅師の位を授けられ、諱(いみな)を神融禅師と号した。
12.また神亀2年(725)7月には白山妙理大権現に参詣した行基と出会い、行基の質問に答えて種々の現瑞(げんずい)などを語り、行基は極楽での再会を誓った。
13.ついで大平8年(736)に都に出て玄ム(げんほう)に会い、11面経を授けられた。
14.翌9年には当時大流行していた大然痘の鎮撫のため、勅を受けて11画法を修した。その功によって大和尚の位を賜り、また諱を泰澄と号した。
15.その後、大平宝字2年(758)からは越知峰の大谷仙窟に蟄居し、ここを入定の地と定めたが、この間神護景雲元年(767)には1万基の三重木塔を勧進造立し、勅使吉備真備に付けて奉った。
16.同年3月18日和尚は予言どおり結跏趺坐し、大日の定印を結んで86歳で遷化(せんげ)した。その遺骨は石の柩に入れて大師房に葬った。

 

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(2)『泰澄和尚伝記』の特色

奥書:大徳元年(957)、三善清行の子・浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)の口授した内容を、その門人で大谷寺を開いた神興が筆記したもの
現存する写本:正中2年(1325)書写の金沢文庫本『泰澄和尚伝記』

*泰澄生誕の地・麻生津について
現福井市38社町  真言宗・泰澄寺が現存
『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅうしゅう)(十世紀前半)所載の越前国丹生郡朝津郷
古代・北陸道の朝津駅 →陸上交通と水上交通の接点=交通の要衝
父・三神安角は船頭を営んでいたという伝承が存在する
⇒白山信仰と水運との関係を示唆?

*道照(道昭)の来訪
道昭:船連恵釈(ふなのむらじえさか)の子、百済系渡来系氏族
白雉3年(653)入唐し玄奘三蔵に師事、法相宗を日本に伝える
飛鳥寺(法興寺)の禅院に居す

*越知山、越知神社と大谷寺
越知山:海抜613メートル
白山の遥拝所としての性格を有し、山上に白山と同じ三所権現を祀る
大谷寺  越知山・越知神社の別当寺
15世紀には、白山中宮平泉寺に対して本宮を称し、11院32坊を擁する大寺院であった大長院が現存
泰澄大師の供養塔(元亨3年(1323)、国重文)をはじめ、白山・泰澄関係の多くの文化財を所蔵する

*能登島出身の小沙弥(臥行者)
現石川県鹿島郡能登島町
高句麗形式の須曽蝦夷穴古墳(磚槨積・隅三角持ち送り技法による石室)が所在
→高句麗文化の影響
近隣(七尾湾岸)の石動山にも類似した山林寺院が所在し、泰澄開基の伝を有する

*神部浄定(浄定行者)の登場
海岸を航行する船舶から徴集する布施
米俵の飛来→「野猿」上の運搬具をイメージしたもの
行者の有する呪力を誇張表現したもの

*泰澄大師が来宿した苔川東伊野原とその東の林泉
苔川:或いは筥川
箱ノ渡=九頭竜川に所在
伊野原:現勝山市猪野  下毛屋に室町期のものと目される泰澄の母の供養塔が現存
林泉:現平泉寺白山神社(越前馬場の中心)の御手洗池
平泉寺=最盛時6千坊を擁する大台宗の大寺院
大正2年(1574)一向宗の焼き討ちにより焼失

*神仏の示現
貴女(伊弉册尊)→九頭竜王→11面観音の意味するもの
畏怖の対象とされた竜形神から農業神(或いは渡来神)である貴女へ
さらに、本地を設定
神のイメージの変遷、渡来系文化の影響と神仏混淆の足跡
11面観音の特性
変化観音=季節により変貌する高山のイメージに合致 女性的容姿

*白山の峰々と三所権現
御前峰(最高峰・海抜2702メートル)=伊弉册尊・11面観音
別山(左弧峰・2399メートル)=小白山大行事・聖観音
大汝峰(右弧峰・2684メートル)=大己貴・阿弥陀如来

*行基の来訪
行基:河内国(のち和泉国)大島郡出身
父・高志才智(西 文氏系渡来系氏族) 母・蜂田古爾比売
諸国を遊行して院を建立し、社会的実践を修する
当初国家によりその活動が禁圧されたが、のち国家の尊崇を受け、大僧正となる

*勧進造立した三重木塔
称徳天皇の発願により製作された100万塔(陀羅尼)
吉備真備は称徳朝で右大臣に任ぜらる

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(3)伝記の伝える文化の諸相

後世の潤色は見受けられるものの、独自の原資料や伝承に基づいて記載されたと推定される部分が少なくない。
北陸地方の宗教文化の特性、全国的な潮流となった山岳信仰や神仏混淆の実態が象徴的に表わされている。

*古代の山岳信仰
畏怖すべき対象であると同時に、日常生活の源でもある山
→神としてのイメージで捉え、崇敬する
数百メートル級の中・低山:日常生活と結びつき、神の降臨する場として受け止める
千メートル以上の高山:容易に足を踏み入れ難い、神の坐す領域として観念
水源としての山岳は、農耕社会に大きな影響を与える存在として認識される
*仏教・道教の伝来と山林修行
仏教・道教では、清浄なる修行場として山岳をとらえる
神の坐す地=禁足地でなく、寧ろ効果的に呪力を確保出来る場としてイメージする
修行者は山岳に立ち入り、神と接触してその呪力を高める
→理論的に、両者の関係を位置付ける必要が生じる
神仏混淆の状況から本地垂迹へ

 

 

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