役小角(えんの おづぬ)
飛鳥時代の呪術者。生没年不詳。[俗]役小角[通]役行者、役優婆塞[謚]神変大菩薩[出]賀茂役公氏[事]大和葛城山で修行を積み、その優れた呪術は世人に広く知られたが、699年弟子の韓国連広足の換により伊豆に配流され、701年赦免されたと伝える。後生大峰山や熊野が修験の霊場となると、その理想の行者と考えられ修験道の開祖に仮託された。 1799年神変大菩薩と勅謚。 ●トップへ
泰澄(たい ちよう)
奈良時代の修験者。白山の開創者。天武11(682)6・11〜天平神護3(767)3 ・ 18. [諱]泰澄[通]越大徳[謚]神融禅師[生]越前麻生津(福井)[出]三神安角の子[事]14歳の時越前の越知山で十一面観音を奉持して修行を積む。臥と浄定の二行者を弟子とし、718年白山に登り妙理菩薩を感得したという。なお702年鎮護国家の法師に任じられ、722年元正天皇の病を加持して平癒させたとも伝える。北陸地方には泰澄開創と伝承する修験の霊山が多い。●トップへ
行基(ぎようき)
奈良時代の僧。天智天皇7(668)〜天平21(749)[諱]行基、法行[生]河内蜂田(大阪)[出]高志才智の長男[師]道昭、義淵[事]682年出家し義淵と道昭に師事したと伝える。704年生家を改めて家原寺とし、民衆への布教に励む傍ら、道橋の修営や潅漑のための池溝を整備した。その知識(信者)集団は僧尼令違反の名目で弾圧されたが、731年知識の一部の出家が勅許され、大規模な土木事業と伝道活動を背景に多 数の帰依者を得て菩薩と称された。743年国家事業である東大寺盧舎那大仏造立に弟子を率いて参画し、745年大僧正に任じられる。機内を巡錫して道場を開き、その数は四九院に 及ぶという。749年大仏鋳造中に菅原寺で没した。 ●トップへ
空海(くうかい)
平安前期の僧。真言宗の開祖。宝亀5(774)〔同4 ?〕〜承和2(835)[諱]空海[幼]真魚、貨物[通]大師、お大師さん[号]遍照金剛[謚]弘法大師[生]讃岐多度屏風浦(香川)[出]佐伯直田公の三子[師]恵果、般若、牟尼室利[事]15歳で上京し、18歳で大学に入学。一沙門から虚空蔵求間持法を授けられ、大学をやめて仏道へ進むことを決意した。797年「三枚指帰」を草し、仏教への出家を宣言。804年31歳で具足戒を受け、留学僧として入唐。翌年青竜寺の恵果から伝法灌頂を授けられ、インド伝来の密教を受法。 806年多くの経論を持って帰国し「御請来目録」を進献した。809年ころより経論の借覧を通じて最澄との交友が始まったが、812年の2度の高雄灌頂ののち冷却し、密教観の相違や最澄に従っていた泰範の帰山拒否などで816年決別した。同年修禅の道場として紀伊高野山の開創に着手。 821年讃岐万濃池の修築別当に任じられ、翌年東大寺に真言宗が完成し南都における密教の拠点が定まり、823年東寺を給預されて都での真言教団の中枢となった。824年少僧都、827年大僧都に昇り、翌年綜芸種智院を開設した。 830年主著[十住心論]を撰述し、思想を集大成した。天長年間(824〜34)の末高野山に隠棲。834年毎年正月宮中で真言法(後七山卸修法)を修することが勅許された。没後の921年醍醐天皇から弘法大師の謚号が贈られた。漢詩文・書道にも才能を発揮するなど、わが国の文化史上に多大な足跡を残す。●トップへ
勝道(しょうどう)
奈良・平安前期の修験者。下野日光山の開創者。天平7(735)〜弘仁8(817)[諱]厳朝、勝道[幼]藤糸[生]下野芳賀(栃木)[出]若田高藤介の子[師]如意[事]20歳の時下野の千手窟で修行を始め、761年下野薬師寺の如意のもとで得度した。766年西本竜寺を開創、782年補陀洛山(二荒山・男体山)に登り、翌々年中禅寺を創建した。789年上野の総講師に任じられ、807年東国早魃の際に請雨法を行なって効験があり伝灯法師位を授けられたという。●トップへ
最澄(さいちょう)
平安初期の日本天台宗の開祖。神護景雲元(767)〜弘仁13(822)[諱]最澄[俗]三津首広野[通]根本大師、山家大師、叡山大師[謚]伝教大師[生]近江古市(滋賀)[出]三洋首百枝の子[師]行表、道遼、行満、順暁[事]近江国師行表に入門し、785年東大寺で受戒した。鑑真請来の天台典籍などの書写を通じて「法華教」を軸とする一乗思想に傾倒。88年比叡山に小堂(一乗止観院)を建立。804年入唐して天台・密教・禅・戒を学び、翌年帰国。 806年天台法華宗を開く。空海から密教の教義を学び、812年山城の高雄山寺(神護寺)で空海から灌頂を受けた。また南都六宗を批判して法相宗の徳一と論争する傍ら法華顕揚に努め、大乗戒壇の設立に奔走した。 866年大師号を勅謚される(大師号の初例)
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徳一(とくいつ)
平安前期の法相宗の僧。生没年不詳。[諱]徳一(徳望、得一)[通]会津徳一[出]藤原仲麻呂(恵美押勝)の子?[師]修円?[事]興福寺で法相を学び東大寺に住するが、20歳ごろ事件に連坐して東国に移る。陸奥会津(福島)の清水寺(恵日寺)を開創後、常陸筑波山の中禅寺など多数の寺を開いたと伝える。815年空海に新しい密教の書籍を写し布教することを依頼され、また『真言宗未決文』を著わし、空海の真言密教に対して疑問を呈示した。817年ごろから法相と天台教学、三乗と一乗思想の真実性をめぐって最澄と激烈な論争を行ない(三一権実論争)、『仏性抄』などを著わした。●トップへ
満願(まんがん)
奈良・平安前期の箱根山の開創者。養老4(720)〜弘仁9(818)[諱]万巻(満願)[生]大和(奈良)[出]沙弥智仁の子[事]20歳で出家し、『方広大荘厳経』12巻一部を一万部読誦する誓願を立てたという。諸国の霊山で修行し、749年常陸の鹿島神宮寺を建立。757年頃箱根山で修行し、759年箱根三所の神宮寺を建て、763年伊勢の多度神宮寺を造営。
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修験道(しゆげんどう)
原始以来の山岳信仰に道教・仏教などが融合した民族宗教。山林修行による呪術力の獲得を旨とし、独自の儀礼によって治病や各種の祈祷に従事した。’その起源は奈良時代の始めに遡り、役小角を始祖とすることが多い。平安中期以降、熊野・吉野を中心とする修験者・山伏の活動が活発化する。●トップへ
神仏習合(しんぶつしゆうごう)
神祇信仰と仏教の融合。 日本に伝来した大乗仏教がすでにさまざまな信仰を取り込んでいたために、高度な体系を持たぬ神祇信仰との対立は少なく、神祇を包摂しながら浸透し、神祇も仏教と融合する中で宗教としての形を整えた。寺院は寺地の神を祭り、神社は仏の加護を得るために神宮寺を建てた。●トップへ
神宮寺(じんぐうじ)
神仏習合思想のもと神社に造られた寺。8世紀には越前国気比神宮寺・若狭国神願寺・伊勢国道鹿瀬寺・同国多度神宮寺などが建立されている。神宮寺の多くは天台・真言両宗に属し、江戸時代末まで多くの神社は敷地内に神宮寺があり、神職と社憎が役割を分掌していた。明治元(1868)年、神仏分離令による廃仏殿釈で多くの神宮寺は廃絶した。●トップへ
国家仏教(こっかぶっきよう)
7世紀後半の天武期より、思想支配の手段として律令国家の統制の下に興隆の図られた仏教。大官大寺・薬師寺等の官寺や氏族の氏寺が建立され、各地域でも豪族による寺院の建立が盛行した。鎮護国家の功徳の獲得と天皇の正当性の保証を目的として、護国教典の普及が図られ、その教説に基づく法会が宮廷・寺院等で催された。●トップへ
山岳信仰(さんがくしんこう)
山岳を霊地として崇拝する宗教形態。世界各地にみられるが、日本でも山は神のいる地として穢すことを許されない聖地であった。仏教の伝来後、山岳信仰はその中に摂取され、険しい山岳での修行によって霊力が身につくと考えられた。
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白山信仰(はくさんしんこう)
加賀・越前・美濃の国境に聳える白山を神体と仰ぐ山岳信仰。「泰澄和尚伝記」に、養老元(717)年、越前の僧泰澄が白山の頂上で本地仏である十一面観音を感得し、そこを行場として開いたことに始まると伝える。白山妙理大権現・大己貴・小白山別山大行事を白山三所大権現と総称し、それぞれ本地を有する神仏習合の信仰として、平安時代以後、大いに栄えた。●トップへ
岩波書店1999年『岩波 日本史事典』より引用。一部、改変。●トップへ
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