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大谷寺

越知山大谷寺 丹生郡越前町 大谷寺  

 金毘羅山(347.4メートル)東南麓にある。西方6キロにある越知山三所権現の別当寺であった。
越知山は越の大徳と称される泰澄が11歳で登峰し、修行したと伝える山で、こののち白山を開いたといわれる。文明10年(1478)12月25日付「越知山年中行事」(越知神社文書、以下同文書)に「4月5日平泉寺ノ御神事、既当山ハ為本寺之間(下略)」とあるように越知山を中宮平泉寺(跡地は現勝山市)に対する本寺本宮とし、さらに永正11年(1514)8月日付社頭仏閣修理勧進状には「伝聞白山之嶺者表胎蔵界、当山之頂者示金剛界云々」とあって、白山と越知山によって両界曼荼羅が成立するとされる。
 承元2年(1208)7月20日付の越知山大谷寺宛公文郡代司寄進状に「奉寄進神押領敷地、神田馬上免田畠御油所在家等間事」として四至に「東限沢、南限古坂山赤井谷職田境西限海、北限大鷹取焼尾境」と記され、越知山を中心とする広大な神領がうかがえる。また「右件於神領等者任代々寄進之状之旨(下略)」とあり、この時代すでに代々の神領があったと思われる。永享元年(1429)3月18日付山作注文によると、神領域境には計18本の山鉾が立てられた。
大谷寺は嘉元4年(1306)8月21日、藤原兼範から弘法大師御影供料田二段を寄進されるなど(弘法大師御影供料田寄進状)、真言系であったと考えられるが、天文元年(1532)10月晦日付大谷寺宛朝倉孝景沙汰状では「向後衆徒分為一統諸法事井南北入峰等可被致其沙汰之旨就連署山門従 梶井御門跡被成御下知屹」とあるように天台宗となり、近世には平泉寺の次席に置かれた。
 寛正2年(1461)正月吉日付大谷寺左右方互契約状によると、仏事を執行する衆徒方と、山伏方と各々一六坊あった。時代によって盛衰はあったと思われるが越知神社文書にみえる坊名は智性坊・良智坊・泉蔵坊・明玉坊・仲蔵坊・慶養坊・蓮道坊・円智坊・財泉坊・大円坊・花蔵坊・覚城坊・荘厳坊・賢松坊・福泉坊・泉幸坊・円了坊・吉蔵坊・勝泉坊・多門坊・善行坊・泉林坊・返照坊・賢光坊・妙智坊・三光坊・成就坊・蔵乗坊・西光坊・真蔵坊・教蔵坊・泉養坊・実蔵坊・才勝坊である。また院主・執当別当・大勧進・少勧進などの役職があった(正和4年6月20日付本場上免田売渡状)。
 永享元年3月18日付四方境状には、真木、茗荷(現織田町)、武周・ニツ屋・尼ヶ谷・別畑(現福井市)などの村名がみえ、享禄2年(1529)5月日付神領坊領目録には近辺の所領が記され、石高にすると約191石余、銭17貢余を収納した。なお神領坊領のうち四ヵ所は朝倉氏に対して年貢・公事を負っており、これらの記載がないので不明だが、含めればはるかに増大する。また文明3年8月日付山方分定書によると山方分21名があり、山方上納として炭・山の芋・串柿・薪・漆・糸など、浦の納所として塩・串鮑・鯛・干鳥賊・干鯖・塩鱈・海苔・串鯖・鯖・和布・飛魚などがあった。蚕種や塩の専売権ももっていたらしく、永禄23年(1570)5月23日付三光坊実経誓約状によると、蚕種の上分銭を徴収した代りに朝倉氏に対して3月・6月に5貫文ずつ納めている。なお正応4年(1291)3月日付神人職補任状によると「自日野河西商人等」を越知山大谷寺の神人に補任している。
 文安5年(1448)10月日付寺僧言上状。同6年4月日付衆徒山臥言上状によると、地頭千秋氏は往古よりの御修理田御供田90石を押え、神木をことごとく切売るなどの横暴を働き、堂舎廃類一寺咸亡に及ぶ事態となったと幕府に訴え、さらに40余ヵ条を掲げて訴訟するとともに、堂舎を閉じて全員離山した。その結果、不満足ながら裁許状が下り、同年12月18日御峰御戸開、神祭を行うに至ったが、その後も地頭の横暴はやまなかった(宝徳2年正月日付衆徒山臥召上状)。一方、周辺農民の神領侵略も絶えず、大永4年(1524)3月日付大谷寺言上書によると、尼ケ谷の百姓に神木を伐採されたこととともに小河村の非法を訴えている。これに対して同8年には小河村から府中(現越前市武生)の奉行への訴訟となったが、結泉は小河村が証文一通もなしとして敗訴した。
 天正2年(1574)6月、一向一揆のため全焼したが、同4年2月16日付柴田勝家判物に「此比迄他所候寺僧落堕人立還、寺内裁許堅令停止候」とあり、同月28日付柴田勝家禁制によって当寺山林敷地内の竹本伐採も禁じられている。同13年9月3日付上田甚右衛門寄進状によると、復興された大谷寺坊中屋敷は10坊に減じた。
 慶長8年(1603)2月12日、結城秀康は大谷村の50石、寛永6年(1629)松平忠昌は笈原村(現織田町)の50石を追加にて越知山大権現領として寄進した。寛永10年頃、大長院住持が学頭と定まったと思われ、同11年には大谷寺法度、寛文2年(1662)には大谷寺井門前定が作られて寺内の運営が行われた。同年の大谷寺田畠山林山割掟帳によると、寺坊は大長院・松玄院・西光坊・智道坊・智性坊・宝泉坊・花蔵坊・蓮道坊があり、分米10.587石、寺家屋敷一反五畝、寺家山、村中持山も平等にあてられていた。
 年中行事については、前記文明10年の「越知山年中行事」に「越知山大谷寺先達方、始修正元日ョリ年中十二月之間、神祭・法事・山上、同於中宮御供之規式井頭役、或座配、或房次第ニ、可勤仕条目之事」として、以下詳細に記されている。また寛永11年3月28日付大谷寺法度によると、山麓の者は2月9日別行を始め、3月7日登山、11月から3月1日までは上糸生の杖立に居住する定めであった。
 明治維新の神仏分離によって越知山大権現は仏教色を排除して越知神社となった。のち大谷寺は天台宗寺院として再興され、平安末期作の木造十一面観音坐像。同阿弥陀如来坐像・同聖観音坐像の三尊一具の仏像をはじめ木造聖観音立像、同不動明王立像(重要文化財)、像内に「明応2年5月26日」の銘記のある同泰澄大師像が残る。また背後山腹には「元亨第三 発亥 三月四日 願主金貨行現大工平宋光」の銘をもつ石造九重塔(重要文化財)がある。

 

 

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